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Diary

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B級シネマ、70年代ROCK、翻訳物ミステリーに執着するパート主婦。

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映画「愛、アムール」と「おみおくりの作法」その3

さて、ここらで映画の話に戻ります。
書きたいことは相変らずいっぱいあるのに、年齢とともにだんだん書くのが遅くなってきているのを痛感します。書くのが遅くなる、というより、頭の中で文章にするのに時間がかかるんですよね。昔みたいにスラスラ書けないし、な~んか支離滅裂になっちゃって、書き直したりセンテンスを入れ替えたり(コピペってホントに便利だ)しても、なかなか自分で納得できる表現が見つからなくて困ります。
また、最近は文章を書くって「脳力」(能力ではない。いや、それももちろん必要だけど)だけじゃなく体力、気力もいるな~ってことも実感してます。加齢とともに、そっち方面のパワーも落ちてきているんだなと、悲しいけれど認めざるを得ませんね。

前置き(いいわけ?)はこのくらいにして、「おみおくりの作法」の話の続き。

向かいのアパートに住んでいたビリーの過去をひもとく旅に出たジョン……ってあたりまで書いてたのかな?
その前に印象的だったのは、ほとんどゴミ屋敷と言いたくなるほど乱雑だったビリーの部屋に遺されていた数多くのレコード。音楽の好きな人だったのですね。これだけで私には好印象。それと、遺されていた免許証か何かの写真を見ると、なかなかの男前で、ちょっとミュージシャンみたいな雰囲気のある人だなあ思いました。
さらに他にも残っていたスナップ写真を見ていくうち、ジョンはその中に野球大会らしき風景を見つけます。参加者の被っている帽子には、ある製パン工場の名前が。

ジョンは列車に乗ってその製パン工場を訪ねます。
そこで聞いた故人の評判は、ちょっと意外なものでした。
ビリーは、その職場において、とても頼りにされた人物だったのですね。なんでも組合のリーダーとして活躍し、従業員たちの休憩時間を五分延ばす交渉に成功。しかしその直後に職場を去ったらしい。そのあたりは、やっぱちょっと偏屈というか、職場の仲間たちから見ても何考えてんだかわかんない人でもあったのでしょう。
さらに、彼には当時恋人がいたことも判明。しかし、かつてはビリーと一緒に暮らしていたという彼女にとっても、ビリーはどこかつかみ所がなく理解できない人だったらしい。
結果、その彼女とビリーは決裂。というか、ある日突然ビリーは姿をくらまし、それ以来会っていないのだそうです。しかも、当時彼女のお腹にはビリーの子供が居て、彼女は現在もひとりでその子を育てているんだけど、「ビリーはこの子の存在すら知らないはず」とのこと。
職場の同僚たちが「ビリーはとにかく女にモテた」っていうのは、なんかわかる気がします。こういう、どれだけ愛してもそばに居ても、どこか遠いような男って、女の狩猟本能をかき立てるんじゃないかなと(笑)。

その後のビリーは職にもつかず、ホームレス生活をしていたようなのですが、当時のホームレス仲間にジョンが会いに行くシーンがまた素敵なんですよ。
何かの建物の階段でたむろしていた二人のホームレスにジョンが話しかけると、「酒をくれたら何でも話すぜ」との交換条件を出される。そこでジョンは酒屋に走り、けっこうイイお酒を買ってきてあげるんですね。
喜ぶホームレスたち、そしてジョンにも一緒に飲めよと勧めてくれる。ちょっと面食らいながらも、一つの瓶から酒を回しのみするジョン。それまでひとりぼっちで、一緒に食事したりお酒を飲んだりする友達もいなかったらしいジョンにとっては、こんなの初めての経験で、とても楽しかったのではないでしょうか。
このとき、ジョンが他に彼らからどんな情報を得たのかはちょっと忘れちゃいましたが、とにかく「ビリーが居た頃は楽しかった」という言葉が印象的でした。ここでもやっぱりビリーは愛されていたんですね。

そしてなんだかんだあって(適当だなー)、ジョンはついにビリーの娘の存在を突き止めるのです。あのパン工場に居た頃の恋人との間に出来た赤ちゃんとは別の娘です。いやま、あっちこっちに種撒きまくっちゃって、ホントにモテモテのビリーくんだったのですね(笑)。
その娘・ケリーは母親とも死に別れ、今はドッグ・トレーナーの仕事をする自立した女性で、しかも魅力的な美人v
彼女とビリーは面会を繰り返すうち、ちょっといい雰囲気になってくるのですよね。

しかし、ビリーの人と成りを知るのに、さらに重要な人物に突き当たります。
それは、今はホームで暮らしている一人の老人。
ジョンが彼に会いにホームを訪れるシーンがまた印象的。
ひとり窓辺に座る老人の部屋へ入っていくと、あらかじめジョンの訪問を告げられていた老人は「アンタがジョン・メイだな。足音が若いのですぐにわかった」と言うのです。その台詞で、この老人は目が見えないのだということがわかる。と同時に、それまで観客からは「しょぼくれたオッサン」とにしか見えていなかったジョンが、実はまだ「若い」のだということに気付くのです。考えてみりゃ、ここまで映画の中に出てきた、ジョンより年上の登場人物と言えば、ほとんど「死んだ人」だっかりだったなあと。
でも、ジョンは映画の中での設定は44歳だったみたいですが、それでもこれから恋をして幸せをつかむのに決して遅すぎる歳ではないんですよね。

それはさておき、老人が語ったビリーのエピソードは、とても悲しくもあり、それでいてどこかほっこりするような話でした。
この老人とビリーはフォークランド戦争の戦友であり、そこではともに悲惨な体験をしている。しかし爆撃を受けて死にかけた老人(当時は若かったんだろうけど)を、ビリーだけが最後まで見放さなかった。
この老人の目が見えなくなったのも、その戦争のせいかな? このあたりはハッキリとは解りませんでしたが、それでも老人が心身ともに深い傷を負いながらも、命を助けてくれたビリーに感謝し、いまだに深い友情を抱いているのは強く伝わってきました。
そしておそらく、ビリーが人との深い関わりを避けるようになってしまったのは、この戦争体験が元だったのだろうということもわかるのです。

ジョンの行脚がなければ、ただの「ゴミ屋敷で死んだ男」に過ぎなかったビリーの人生が詳らかになったところで、ジョンはひとつの決意をします。
自分のために買ってあった墓地の一等地(?)を、ビリーに譲ることにしたのです。
これは、戦争の功労者にして組合のヒーロー、そして男たちからは慕われ、女たちにも愛された、素晴らしい奴だったビリーへの敬意もあったでしょうが、なによりジョン自身が、死ぬことではなく、生きることに希望を見いだしていた証だと思います。
そう、自分はまだまだお墓に入ることなど考えなくていい。その前に、もっと人生を謳歌して生きることが大切なのだと。

それまでは、まるで死んでいる人たち以上に死んでいるかのように(?)無表情だったビリーが、このあたりから生き生きとした表情に変わっていく、このあたりのエディ・サーマンの演技は実に見事だったと思います。
一つの映画の中で、前半と後半とではまるで別人のように表情が変わるといえば、「汚れなき者」のマッツ・ミケルセン以来の名演技だったのではないでしょうか。

ビリーの葬儀に出てくれそうな人たちも集まり、ジョンの葬儀構想もどんどん具体的になっていきます。
とくに、ケリーに対して、ビリーの遺品の音楽アルバム(CDじゃなくてLPレコードってとこがまたイイですね)を見せながら、「この○曲目の、この曲がいいんです。葬儀で使う人はあまり居ないでしょうが、この曲をぜひ流したいんです」と力説するあたりの楽しそうなこと。
ま、葬式の話をしてるのに楽しそうってのもどうかとは思いますが、私の葬式にも、こんなふうにいろんなアイデアを出してくれたらきっと嬉しいだろうと思う。「おかーさんはこの曲が好きだったのよ」とか「花はこっちのほうがSAEも喜びそう」とかね。

そしてジョンは、ケリーとひとつの約束をします。
ビリーの葬儀の後、時間があればお茶でも飲みませんか、と。
よく言った、ジョン! ケリーが快くOKしてくれたときは、おまえとケリーの新しい人生がが始まるぞ!!と祝福したい気持ちで、こちらまで幸せな気持ちになりました。

し か し です。
きっとハリウッド映画だったら、このあと無事に葬儀を終えたジョンとケリーの恋の予感を感じさせる場面で終わってハッピーエンド♪となるところなのでしょうが、この映画はそうは行きませんでした。

犬好きのケリーのために、犬の絵のついたマグカップを買ったジョンは、なんと店を出たところで車にはねられて死んでしまうのです。
ここで私は思わず「えーっ!? そんなのアリ?」と心の中で叫んでしまいましたよ。
せっかく何もかもうまく行ってるのに、なんでここでぶっ壊すかなあ。イギリス映画って意地悪だなあと。

そして執り行われるジョンの葬儀。
このシーンが、冒頭の誰かの葬式の絵面がダブるという手法は、実に巧いなあと思いました。なんて言うんだろ。シンメトリー、ってのとも違うな。とにかく、大きく広がっていった輪が、最後に元の位置に戻ってしっかりまとまるような感じ?
しかも、最初のシーンでは棺の向こうに司祭、弔問席にはポツンとジョンの姿があったのに、ジョン自身の葬儀には、たった一人の弔問客すらありませんでした。
このあたりはどうなのかなあ? 葬式を出せたってことは、誰かがその手配をしてくれたはずですよね? でなかったら単に火葬して遺灰を撒くだけで終わったはず。身寄りのないジョンには、そんな人もいないから、おそらく職場の人がやってくれたと考えるしかないのですが、だったらその人たちの誰一人として列席しないってことはありえないんじゃないかと。

ま、こういう重箱の隅攻撃はほどほどにして、ジョンの葬儀は、奇しくもあのビリーの葬儀と同じ日でした。
ジョンが譲った「日当たりのいい一等地」に葬られようとするビリーの棺の周りには娘ケリーや、あの盲目の老人を始めとする戦友たちやホームレス仲間などが集まり、哀しみの中にも和やかな空気が流れている。
その傍らを、墓守りに運ばれていくジョンの棺。もちろん、見送る人は誰も居ません。
ただ、ケリーだけがしきりに辺りを気にしている様子で、ジョンが来るのを待っているのがわかります。葬儀の後、お茶を飲もうと約束したはずなのに、どうして来ないの?って感じで。でも、そのケリーすらジョンの棺には注意を払うことなく、棺は寂しい場所に埋められてしまう。

ああ、なんという残酷な結末……と思いきや、ここからがまたいいんですよ。

ひっそりと埋葬されたジョンの墓所へ、画面の向こうから一人の男が歩いてくる。
でも、その姿はどこか透けているというか、生きた人間ではないなということがわかります。ちょっと顔が確認できなかったんですが、あれはおそらくビリーだったんでしょう。
そして、彼に呼び寄せられたかのように、次々と現れる「死者」たち。それはかつてジョンがひとりで「おみおくり」をした人たちでした。彼らが沈黙のうちにジョンの墓所を取り囲むシーンで、映画は静かに終わります。

いやまー、素晴らしいラストシーンでしたね。その前にあった、ビリーの葬式から引き上げる人たちの和気藹々とした後ろ姿や、まだジョンの姿を探しているケリーの表情も良かったですが、ジョンが決してひとりぼっちで逝ったんではないとわかる、あの幻想的なシーンは本当に心に残りました。
ちょっといきなりファンタジーすぎて面食らったようなところもありましたが(笑)。

それで、私自身が日頃から思っていることを、改めて感じました。

「人が死後に何かを残せるか否かは、その人が自分以外の人のために何をしてきたかで決まるんだ」
と。
物言わぬ死者のために尽くしてきたジョンは、この世に遺すものは何もなかったかもしれないけど、彼のしてきたことを覚えてくれている人はきっといる。
ケリーもやがてジョンの死を知ることになるんだろうけど、彼の思い出は彼女の内に生き続け、それはきっと、ジョンが最後の仕事で出会った人たちの間でも、今後語り継がれていくことと思います。

そして何より、ひとりぼっちで生きてきて、最初で最後とも言える幸せへのチャンスすら逃してしまったジョンだけど、死後はきっとたくさんの仲間に感謝され愛されて天国へ行くんだろうなと思えて、悲しいけれど何故か幸せな気分になれるラストだったと思いました。



by glassysky | 2017-04-23 05:36 | Comments(0)

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